Keishythm

人間らしくちゃんと生きたい何かの、足跡です。

タイ、道すがら

道すがら

道路のわきに横たわり 焼けた肌にしずくを浮かべ

小さく呼吸を繰り返す人の 足がなかった

前を横切るぎこちない犬の 前足はひとつ

 

貧乏旅行だと思って歩き続けた 立派な足ふたつ ジーンと痛む 

 

見てしまった 見てしまった

何が運命 何が運命

何が違う 彼らと僕と 何が違う

 

答えの出ない

自問を唱えて

歩いて歩いて歩き続けた

「どうしようもないわたしが歩いている」

種田山頭火もぼくも

 

見て歩いて向き合うしか能がない

その唯一の能を手放してしまったら

ぼくはもうにんげんじゃなくなってしまう

 

だからちゃんと歩きぬく

何もできなかったあの日は

僕と彼らの交差点なんだって

いつあけてもいい手紙

いつあけてもいい手紙を書いた

そこにあるものは あなたともに

変わり続けて いつもそこにあるから

いつあけてもいい

なんどだってあけていい

10年 20年 50年

ひょっとしたら私がいなくなったあとも

 

100億年の歴史のなか

ひそかに語り継がれた

いのちのささやきが

わたしに巡ってきたから

そっと書き留めて

あなたに残しておきます

 

大切なことはことばにはないの

そのことばのやってきた方

ことばが連れてくる風の向こう

聞くという行為のなかに

語るという行為のなかに

 

 

 

 

信じるということは信じないということ

 世間で言われている「信じる」という聞こえの良い言葉、実際は「期待する」になっている気がします。相手の過去の言行をもとに少し先の行動を期待して、それが外れれば「裏切られ」た言う。たいてい「信じる」は自分に都合のいいふるまいを相手がしてくれると「期待する」ことになっていないでしょうか。

 でも人間は、完璧に期待できない、あるいはしてはいけない生き物なんじゃないかと思います。悪いことではなくて、人は自己撞着する本来的に矛盾した生き物じゃないでしょうか。しかしそれでも、期待しないという意味でなら、「信じる」ということはできるんだと今回は書いていきたいと思います。

 「信じる」というのは「何がどう転んでも、その未来を引き受ける」ということです。ということは、おそらく一方で何か決まった傾向や未来を「信じていない」ということでもある思います。自分に都合がいいか悪いかは考えていない。

 けれど「疑い」がないかと聞かれれば、「疑い」も「不安」もあります。人間らしく「疑い」や「不安」がある条件下で、それでも自分を全部投げ出して相手を信じるという意思や決意だけしか、世知辛さを破ることはできないんじゃないかと思います。とても勇気がいることです。でもそういう人に会えるかどうか、自分がそう思いきれるかどうか、これは人生の質を大きく変えると思います。

 夏目漱石の「こころ」では、先生は「私」に「死ぬ前にたった1度でいいから人を信用して死にたい」と言いました。そしてずっと守ってきた弱い裸の部分(こころ)を「私」にだけさらして死にました。先生は「守ること」を捨て、「信じること」を手にして、ようやく死ぬことができました。僕はこう思います。先生は人を信じることができて初めて生きることができた、生きるということを全うすることができたんじゃないかなと思います。だから死ぬことができた、と。人を信じることができなかった、そしてなにより一度罪に染まってしまった自分のこころを信じることができなかった先生はずっと死んだように生き、死に場所を探していました。その「先生」に「死に場所」、つまり最後に生き直す場所を与えたのは、先生を信じていた「私」です。だから先生は自分の生きてきた道を語り、こころを洗いざらい吐き出すことで「私」とのなかで「生」を取り戻した。それはある意味自身の生殺与奪を手放すという危険な行為ですが、それと引き換えに「真に生きる」秘儀にたどり着いた。

 太宰治の「走れメロス」では、メロスの代わりにつかまったセリヌンティウスはメロスに「戻ってくるな。生き延びろ。」と言います。ここでもセリヌンティウスは生殺与奪を放り捨てて、メロスと未来を信じています。それに対してメロスは「私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言っておられぬ。」というように、命がけ、いやそれ以上の重いものをかけて走ります。

 「信じる」というのは、死んでもいいという覚悟の下「自分」を投げ出すことではないでしょうか。そうしないと失うものがある。そうすることで生かされるもの、生き直せるものがあるから「自分」なんて小さいものは一旦捨てる。信じることは相手の性格や相互の努力、そして絆によって成り立つと思うかもしれませんが、僕は自分の決意にはじまり決意に終わると思っています。投げ出して受け止められなくても、自分でまた1から拾い直せると思う。一緒に拾ってくれる人もたくさんいる。「信じる」は、そういう自分が歩いてきた道や関わってくれた人たちを「信じる」ということかもしれません。僕は、守りたい固定的な「自分」というのをそもそも信じません。「自分」は、歩いてきた物語とそれに関わってくれる人たちのことであって、固定的な実体はない気がします。歩いてきた物語、関わってくれた人たち、そしてこれから関わってくれる人たち、それら全部信じないと「自分」が欠けて小さくなってしまう気がします。そんな「自分」は守らなくていい。信じなくていい。

 「信じる」というのは小さな「自分」を守らなくてもよくなれば、いつでもできてしまうようなことです。「信じる」ということは相手を知らなくてもできるんです。それは「相手」を信じていないからです。正確には「相手」という固定的な観念を信じていないからです。いつでも世は変わり続けて、人はどこにいても歩き続ける強さがあります。そういう大きなものに対する絶対的な信頼があるから、いつでも自分を投げ出せる。けど怖いものは怖いし、疑いもあります。信じがたい人格障害のある方もいますしね。でも人間皆まともじゃない部分ってあるでしょう。そこを認めて引き受けてないと、他人とは分かり合えないという前提にまず立てないし、そこに立脚すれば自分を投げ出して受け止められなくても起き上がれます。

「宗教」と「宗教的なもの」 

「宗教」と聞くと、少し身構えてしまう人がほとんどだと思います。僕もそうでした。ちなみに僕は特定の宗教には属していませんし、お説教する偉い人でもありません。だから、なんでもない平凡な僕が平易な言葉で書くことができれば、もしかしたら「宗教的な見方、考え方」について得られる視点があるかもしれません。

なぜ僕がそんなことを話題に挙げるかと言うと、率直に言って宗教を知らないのは、あるいは宗教を遠ざけてしまうのは、人間性を失ってしまうのかもしれないと思ったからです。宗教は「教え」の体系ですよね。僕の専門は「教育」ですが、人格や人間性の涵養という目的において宗教とつながっています。だから少し勉強したんです。

こういう語り口調だと洗脳だと思われるかもしれませんが、壺も本も売りつけません(笑) むしろSOSなんです。皆さんも考えてみてください。

人間性」は言い換えると「人間としてあるべきあり方」です。当然、答えはありません。だからすべての宗教は「こうしたら間違いありません」なんてことはふつう言ってないんです。にもかかわらず、僕ら宗教に明るくない人たちから見ると、宗教活動をしている人ってなぜあんなに自信満々で、こわく映るんでしょうね。しかも形式を押し付けてきたりして。

 宗教に入ろうが入るまいが人はいつ人間性を失うかわからない、常に「人間性を問われ続ける存在」です。なので「特定の宗教」の入り口に入ることはさして重要な問題ではないのです。「問われていることに気づく」その瞬間、あなたは「宗教的な道」の入り口に来ています。それが大事なのです。そして特定の宗教の形式に沿っていれば間違いないということも絶対ありません。なぜなら正しいことはいつもその状況の中に埋め込まれた問題に左右されるのであって、宗教の中にあるわけじゃないからです。宗教に入っていても誰かに言われるがまま、または組織に随うままの人は、宗教の体系に固執しているだけで、「宗教的なものの見方、考え方」を見落としています。

私が宗教を遠ざけてはいけないというのは、この「人間性を問われていることに気づくこと」及び「宗教的なものの見方、考え方」を身につけることが人格の成長には欠かせないと考えるからです。「特定の宗教」への門をたたけとは決して言いません。「特定の宗教」はその情操を育てるための1つの間口であって、ゴールではなく、入ってからも教えの上で迷い歩き続ける日々に人間性があるのです。大事なことは「宗教的なもの」を排除せず、「宗教的な見方、考え方」を形成することです。

 

さてじゃあ「宗教的な見方、考え方」とはなんなのって話ですが、ここからは完全オリジナルで端的に言ってみるチャレンジをしてみます。ずばり「自分の人生を、自分でない者との関係で、生まれる前から死ぬ先まで、全体的に見貫くこころの目」です。

 

大事な点は3点。1つ目は、その目が「自分」の人生を「自分ではないもの」との関係で捉えるものであること(空間軸)。2つ目は、その目が「生まれる前から死ぬ先まで」の大きな流れを捉える通時的なものであること(時間軸)。そしてそれらを支えるこころ、すなわち知性と感性(想像力など)を掛け合わせた人間を人間たらしめる能力です。

 

1つ目、「自分」を「自分ではないもの」との関係で捉えるというのは、簡単に言えば、「みんながいて自分がいるということ」に気づくということです。「自分ではないもの」は、例えばまず「他者」が浮かびますね。「他者」がいなければ「自分」を「自分」と認識できません。そして動物や植物も大切です。食べているものばかりはなくて、そのへんにいる虫けらもまた、食物連鎖のなかで重要な役割を担っていると想像できますか? 人間は彼らなしに生きられません。そしてそれらが生きている土や日の光、水や空気などの自然も同様です。そしてここからは意外かもしれませんが、亡くなった人も入ります。この世に生まれたのは、数えきれないいろいろな偶然のもと、産み落とされたわけです。数えきれないご先祖様がいて、私たちは今ここにいるんです。 

   このように「自分ではないもの」は「私」の知性によってはじめ知覚されるものから、知識をベースに想像されるものまで広がります。こうしてみると、命は徹底的に他者によって生かされていると思えるようになりませんか?このようにして人が認識できない果てしない偶然や「あの世」と言われるような、現世を包むような世界にまで意識を拡張するんですね。(ちょっと胡散臭くなってきましたね。)

    そしてここまで意識が拡張されると、「私」に固執する必要はなくなり、「自分ではないもの」と「私」の差異は小さく小さくなってやがてなくなってくるのです。この時、「私」と「私ではないもの」は1つとなります。しかしそれは一歩引いてみると「自分」の想像によって成り立っているので、のちにこの意識は「自分」として認識されるのです。宗教哲学者の上田閑照さんはこの意識の動き全体を

「私は、私ならずして、私である」と言う「私」

として表現しています。まず「私は…」と考える私の意識は、「私ではないもの」を探す旅へ知性と想像力を携えて「私ならずして…」とどこまでも開いていきます。あの世まで。(笑)

ここから帰ってこれないと「自己喪失」になります。「結局私ってなんでもないの~?(焦)」と言う感じ。一方でそもそもこの旅に出かけられない人は「自己執着」になります。世界は自分を中心に回っているという感じ。

 意識がどこまでも開き、そしてちゃんと帰ってこれたとき、「私」を「私ではないもの」の総体とはっきり区別できるほどの差異は消えながらも、「私は、私ではないが、でも私だ」となるわけです。(何言ってんのこいつ、って感じ分かりますよ(笑))

 

  この意識の働きは何がどうなっているかというと、「私」と「私ではないもの」の境界をさまよい調和を図り続けようとする人間の知性の働きがあります。ですが何か「宗教的なもの」の体験によって形而上的なものを意識する、想像力の働きが起きます。人間は存在しないものも想像することができますね。あるかないかが問題なのではなく、想像できてしまい、それが人の行動に影響を与えるということが重要です。要するに、人間は存在しないもの(というより認識できないもの)ともコミュニケーションしているのです。

  知性では計り知れないものを想像してしまうのは人間の珍しくない営みです。そして想像したことを知性で確かめながら、しかし決して知りえることのできない領域のことを想像する。例えば「死」はその代表的現象です。どんなに知っていても、知り切ることはできませんよね。「死ぬ」とはどういうことか、死ぬまでわからないのです。けれど想像して怖くなって、死を避けたり。ほら、行動にしっかりと影響が出ている。

(2つ目の時間の話に入っていきます)

  だけど大切な人が亡くなったり、大規模な災害が起こることによって「死」を直視せずにいられない時が来るでしょう。そうして初めて「生」が1つの奇跡であり、常に「死」と隣り合わせの不確実なものであると学ぶことができます。そして、ある単純な「気づき」が起こります。それは「死んだら肉体はなくなるが、生きた証や生き方は死んだ後も人々の中で生き続ける」ということです。つまり肉体的な「生」とは質の異なる霊的な「生」について想像が及びます。肉体的に「生き延びること」よりも質的に「真に生きること」が大事だと気づくのです。こうして人は自分の生き方を、生きている間だけではなく自分が死ぬ先まで貫いて考え、生まれる前の多くの先人たちの生き方に学びます。人々の生きた事実を学ぶ「知性」と、それが未だに人々や文化、街のなかにまだありありと生きていることを「想像するイマジネーション」。それが究極的には、人が誕生する前からの宇宙の流れのなかにあるという意識にまで拡張します。

  このようにして時間軸も空間軸も、一般的に言われる世界や時間の感覚とは質的に断続的な、霊性的世界とか永遠とか言われるところまで拡張される経験やこの全体的視野に導くものが「宗教的なもの」ということです。このような全体的視野において自己は個性と全体性を同時に保つことができます。「私=宇宙」とする悟りや、神の子イエスとともにあるというような感覚はこういうことです。どうしたらここまで至れるのか...それは言葉を超えています。ともかくこれが、宗教の本質的な機能なんだと思います。

  共同体に生きる個は、この個性と全体性の対立と解消、その葛藤を繰り返して宗教的な情操を育てていきます。ところが、すでに形式化された宗教の教えや言葉が空転していたり、「死」が遠ざけられたりすると、自然な倫理観が歪んでいくし対話が成り立たないんだと思います。

 

以上ですが率直に言って友達減りそう… 

ひとはみな、いたずらっこ

いたずらなものに、いたずらに、いたずらなことを覚えて、いたずらになる。

 

たいしたことないことに、ただ何となく、途方もないことを感じて、しぬ。

 

 

花を見たり、小さな虫を見たり、風に吹かれたりしただけで、なぜか宇宙、真理、永遠を感じ、そして寂しさと虚しさ、そしてちょっと胸の温かさを感じる。そんな大切な、わたしの無駄な時間。

もらい生き

生き生きと枯れる花から

生き生きと潰れた虫から

生き生きと流れる雲から

生き生きと帰る波音から

 

生き生きと血を捧げる人から

生き生きと恋に破れる人から

生き生きと叶わぬ平和を歌う人から

生き生きと死を詠う詩から

 

生き生きと鳴らすへたくそなフルートから

生き生きときしむかちこちの体から

 

もらい生き

 

思えばこのいのちは

はじめからもらったもの

 

信じてほしいと言いながら

信じていなかったのはだれだ

 

本当に信じていたなら

そう言わずにただ

待っていることもできただろう

 

「信じる」

なんて無力な言葉よ

自分を守ろうとするばかり

 

知ってるだけじゃ使えない

むしろ「知る」とは対極の

恐れを知らない 裸の決意

 

「信じる」

その言葉の深遠まで

決意を響かせるように

強くあれ 誠であれ