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星を見るとき

 

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(写真はKAGAYAさんという写真家さんのツイッターから拝借しました、素敵です。

https://twitter.com/KAGAYA_11949

 

星を見るとき、僕はいつも人を思います。

例えにもよくあるように、億千の星々の一つ一つは世界中の人々を表していて

そのなかに、自分の星や友達の星があるんじゃないかなと思って探したくなります。

そして、一つ一つの星がかすかに明滅しながら、でも確かにちゃんと光って存在しているのが、人が健気にいのちを燃やす様子に似て、鏡のように思えるのです。

都会で見るときは、怖いような寂しいような気持ちになります。星と星の距離がとても遠いので、無を思わせる宇宙の途方もなさが、永遠に小さな光たちを分かち、この世界を生きることの孤独な宿命を思わせるからです。

しかし奥多摩で初めて見た本当の姿は、写真にあるように、数えきれない星々が一体となって黒を光で埋め尽くしていたんです。友達と一緒に見ていたこともあって、「なんだ、こんなに近くに、みんないてくれたんだなあ」と、長年の孤独感が一気に満たされた気がしました。

 青年海外協力隊や国際教育に従事しようと決めたのはずいぶん前のことですが、この体験が後押ししてくれました。国際協力、平和貢献がしたいと漠然と考えてはいても「世界のために、平和のために何ができるんだろう」と何もわかっていなかったとき、ある星が「ちゃんとみんなそばにいるよ!」と言ってくれた気がしました。それが僕の国際協力の道しるべになっています。今考えればあれが自分の星だったのかもしれません。

遠い地で全然違う暮らしをしているアフリカの人々のことを日頃僕らは、貧しくてかわいそう、汚くて心配、原始的で怖い等、離れたところから何か言うだけです。開発援助等は国家単位での話か、もしくは「物好きで勇気のある誰かさんの冒険」くらいにしか思えず、例えるなら教科書やドキュメンタリー映画の美談にしかなっていない。

一番の問題は地理的距離じゃなくて心理的距離です。

 ある人が、「国際協力は特別な人だけがやることではなく、一人一人の心の中にその芽があるんだ」と言っていました。それを聞いて僕は平和の意味も、それは世界がある望ましい状態になるのではなく、1人の心にあるものなんじゃないかと思いました。想像してみてください。たとえ世界が平和じゃなくても幸せに死んだ人なんていくらでもいますし、その逆もいます。どんなに裕福で恵まれていても、なにか満たされずに死んだ人だっているでしょう。何が決め手でしょうか。思うに、この見えている世界は、最後の最後は自分だけのものです。最期に自分の心の中に平和を、またはその希望の芽を見出し、この世界に生まれてよかったと思えれば、平和はそこにあったのだと言えないでしょうか。生まれてきたこと、死んでいくこと、残していく後の世界のことを肯定的に受け入れて祈ることができるように、平和の社を心に建てること。生きてるうちに、人の温かいきずなや故人を惜しむ涙、青春を懐かしむ友情や、やぶれる恋の苦さ、そういう真実の稲光が刺すような一瞬を積み重ねていくとき、いつしか自分の生について人生からの問いかけに気づいたとき、それに応えようと一生懸命に生きて貫いてきたことを最後振り返るときに、平和の社がある。すべての人がその社を心に建て、信じて祈る世界が平和に最も近いんじゃないかと思います。

 だから僕は平和とは望ましい世界の姿というよりも、信じ祈る心、その社の中やその風格をかもす行動に宿るもので、その断片を生きている間に目撃することはあっても、全体像は最後にわかるものでないかと思うのです。長い長い道のりです。最期までたどり着けません。しかしだからといってあきらめない強さや信じて待つ心を、「愛」というのではないかなと思います。そして永久にたどり着かない平和ならば、それを目指すこと、これすなわち平和だと思います。

 すこし抽象的になってしまいましたが、もちろん現実問題として、貧困や格差、戦争や構造的暴力は深刻です。しかしそれがない日本で、平和を信じて生きている人がどれほどいるでしょうか。あなたの平和はあなたが見つけなければいけないんです。すこし孤独になって星を見つめてみてください。自分の星と、隣の星と、遠くの人々のことを見てください。「みんないるよ」と呼びかけ合っている星空に平和の象徴を見ることができませんか。それに応えるように「わたしもいるよ」の一言が言えることが、国際協力の最小単位じゃないでしょうか。