Keishythm

人間らしくちゃんと生きたい何かの、足跡です。

「宗教」と「宗教的なもの」 

「宗教」と聞くと、少し身構えてしまう人がほとんどだと思います。僕もそうでした。ちなみに僕は特定の宗教には属していませんし、偉い人でもありません。だから、なんでもない平凡な僕が平易な言葉で書くことができれば、もしかしたら「宗教的な見方、考え方」について得られる視点があるかもしれません。

なぜ僕がそんなことを話題に挙げるかと言うと、率直に言って宗教を知らないのは、あるいは宗教を遠ざけてしまうのは、人間性を失ってしまうのかもしれないと思ったからです。宗教は「教え」の体系ですよね。僕の専門は「教育」ですが、人格や人間性の涵養という目的において宗教とつながっています。だから少し勉強したんです。

こういう語り口調だと洗脳だと思われるかもしれませんが、壺も本も売りつけません(笑) むしろSOSなんです。皆さんも考えてみてください。

人間性」は言い換えると「人間としてあるべきあり方」です。当然、答えはありません。だからすべての宗教は「こうしたら間違いありません」なんてことはふつう言ってないんです。にもかかわらず、僕ら宗教に明るくない人たちから見ると、宗教活動をしている人ってなぜあんなに自信満々で、こわく映るんでしょうね。しかも形式を押し付けてきたりして。

 宗教に入ろうが入るまいが人はいつ人間性を失うかわからない、常に「人間性を問われ続ける存在」です。なので「特定の宗教」の入り口に入ることはさして重要な問題ではないのです。「問われていることに気づく」その瞬間、あなたは「宗教的な道」の入り口に来ています。それが大事なのです。そして特定の宗教の形式に沿っていれば間違いないということも絶対ありません。なぜなら正しいことはいつもその状況の中に埋め込まれた問題に左右されるのであって、宗教の中にあるわけじゃないからです。宗教に入っていても誰かに言われるがまま、または組織に随うままの人は、宗教の体系に固執しているだけで、「宗教的なものの見方、考え方」を見落としています。

私が宗教を遠ざけてはいけないというのは、この「人間性を問われていることに気づくこと」及び「宗教的なものの見方、考え方」を身につけることが人格の成長には欠かせないと考えるからです。「特定の宗教」への門をたたけとは決して言いません。「特定の宗教」はその情操を育てるための1つの間口であって、ゴールではなく、入ってからも教えの上で迷い歩き続ける日々に人間性があるのです。大事なことは「宗教的なもの」を排除せず、「宗教的な見方、考え方」を形成することです。

 

「宗教的な見方、考え方」とは端的に言って「自分の人生を、生まれる前から死ぬ先までの、全体的に見貫くこころの目」です。

 

大事な点は3点。1つ目は、その目が「自分」の人生を「自分ではないもの」との関係で捉えるものであること(空間軸)。2つ目は、その目が「生まれる前から死ぬ先まで」の大きな流れを捉える通時的なものであること(時間軸)。そしてそれらを支えるこころ、すなわち知性と感性(想像力など)を掛け合わせた人間を人間たらしめる能力です。

 

1つ目、「自分」を「自分ではないもの」との関係で捉えるというのは、簡単に言えば、「みんながいて自分がいるということ」に気づくということです。「自分ではないもの」は、例えばまず「他者」が浮かびますね。しかしそれだけではありません。動物や植物も入ります。同じ生き物です。それらが生きている土や日の光、水や空気などの自然もです。さらに、亡くなった人やこれから生まれてくる人も入ります。このように「自分ではないもの」は「私」の知性によって知覚されるものから想像されるものまで広がります。このように実際には存在しない「あの世」と言われるような、現世ではない世界にまで意識を拡張します。(ちょっと胡散臭くなってきましたが、後で説明します。)

そしてここまで意識が拡張されると、「私」に固執する必要はなくなり、「自分ではないもの」と「私」の差異はなくなってくるのです。この時、「私」と「私ではないもの」は1つとなります。しかしそれは「自分」の想像によって成り立っているので、のちにこの意識は「自分」として認識されるのです。宗教哲学者の上田閑照さんはこの意識の動き全体を

「私は、私ならずして、私である」と言う「私」

として表現しています。まず「私は…」と考える私の意識は、「私ではないもの」を探す旅へ知性と想像力を携えて「私ならずして…」とどこまでも開いていきます。あの世まで。(笑)

ここから帰ってこれないと「自己喪失」になります。そもそもこの旅に出かけられない人は「自己執着」になります。そして意識がどこまでも開いたとき、「私」を「私ではないもの」の総体とはっきり区別できるほどの差異は消え、「私は、私ではないが、でも私だ」となるわけです。(何言ってんのこいつ、って感じ分かりますよ(笑))

この意識の働きは何がどうなっているかというと、「私」と「私ではないもの」の境界をさまよい調和を図り続けようとする人間の知性の働きがあります。ですが何か「宗教的なもの」の体験によって「あの世」を意識する、想像力の働きが起きます。人間は存在しないものも想像することができますね。あるかないかが問題なのではなく、想像できてしまい、それが人の行動に影響を与えるということが重要です。要するに、人間は存在しないものともコミュニケーションしているのです。

知性では計り知れないものを想像してしまう。もしくは想像したことを知性で確かめながら、しかし決して知りえることのできない領域のことを、確かめたことをもとにして想像する。例えば「死」はその代表的現象です。どんなに知っていても、知り切ることはできませんよね。「死ぬ」とはどういうことか、死ぬまでわからないのです。

(2つ目の時間の話に入っていきます)

だけど大切な人が亡くなったり、大規模な災害が起こることによって「死」を直視せずにいられない時が来ます。そうして初めて「生」が1つの奇跡であり、常に「死」と隣り合わせの不確実なものであると学ぶことができます。そして、ある単純な「気づき」が起こります。それは「死んだら肉体はなくなるが、生きた証や生き方は死んだ後も人々の中で生き続ける」ということです。つまり肉体的な「生」とは質の異なる霊的な「生」について想像が及びます。肉体的に「生き延びること」よりも質的に「真に生きること」が大事だと気づくのです。こうして人は自分の生き方を、生きている間だけではなく自分が死ぬ先まで貫いて考え、生まれる前の多くの先人たちの生き方に学びます。人々の生きた事実を学ぶ知性と、それが未だに人々や文化、街のなかにまだありありと生きていることを想像するイマジネーション。またそれは人が誕生する前からの宇宙の流れのなかにあるという意識にまで拡張します。

このようにして時間軸も空間軸も、一般的に言われる世界や時間の感覚とは質的に断続的な、霊性的世界とか永遠とか言われるところまで拡張される経験やこの全体的視野に導くものが「宗教的なもの」ということです。このような全体的視野において自己は個性と全体性を同時に保つことができます。「私=宇宙」とする悟りや、神の子イエスとともにあるというような感覚はこういうことです。どうしたらここまで至れるのか...それは言葉を超えています。ともかくこれが、宗教の本質的な機能なんだと思います。

共同体に生きる個は、この個性と全体性の対立と解消、その葛藤を繰り返して宗教的な情操を育てていきます。ところが、すでに形式化された宗教の教えや言葉が空転していたり、「死」が遠ざけられたりすると、自然な倫理観が歪んでいくし対話が成り立たないんです。