Keishythm

人間らしくちゃんと生きたい何かの、足跡です。

信じるということは信じないということ

 世間で言われている「信じる」という聞こえの良い言葉、実際は「期待する」になっていますよね。相手の過去の言行をもとに少し先の行動を期待して、それが外れれば「裏切られ」たことになります。たいてい「信じる」は自分に都合のいいふるまいを相手がしてくれると「期待する」ことですよね。

 でも人間は、完璧に期待できない、あるいはしてはいけない生き物なんじゃないかと思います。悪いことではなくて、人は自己撞着する本来的に矛盾した生き物じゃないですか。しかしそれでも、本来の意味でなら、「信じる」ということはできます。

 「信じる」というのは「何がどう転んでも、その未来を引き受ける」ということです。ということは、おそらく一方で何か決まった傾向や未来を「信じていない」ということでもある思います。自分に都合がいいか悪いかは考えていない。

 けれど「疑い」がないかと聞かれれば、「疑い」も「不安」もあります。人間らしく「疑い」や「不安」がある条件下で、それでも自分を全部投げ出して相手を信じるという意思や決意だけしか、世知辛さを破ることはできないんじゃないかと思います。とても勇気がいることです。でもそういう人に会えるかどうか、自分がそう思いきれるかどうか、これは人生の質を大きく変えると思います。

 夏目漱石の「こころ」では、先生は「私」に「死ぬ前にたった1度でいいから人を信用して死にたい」と言いました。そしてずっと守ってきた弱い裸の部分(こころ)を「私」にだけさらして死にました。先生は「守ること」を捨て、「信じること」を手にして、ようやく死ぬことができました。僕はこう思います。先生は人を信じることができて初めて生きることができた、生きるということを全うすることができたんじゃないかなと思います。だから死ぬことができた、と。人を信じることができなかった、そしてなにより一度罪に染まってしまった自分のこころを信じることができなかった先生はずっと死んだように生き、死に場所を探していました。その「先生」に「死に場所」、つまり最後に生き直す場所を与えたのは、先生を信じていた「私」です。だから先生は自分の生きてきた道を語り、こころを洗いざらい吐き出すことで「私」とのなかで「生」を取り戻した。それはある意味自身の生殺与奪を手放すという危険な行為ですが、それと引き換えに「真に生きる」秘儀にたどり着いた。

 太宰治の「走れメロス」では、メロスの代わりにつかまったセリヌンティウスはメロスに「戻ってくるな。生き延びろ。」と言います。ここでもセリヌンティウスは生殺与奪を放り捨てて、メロスと未来を信じています。それに対してメロスは「私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言っておられぬ。」というように、命がけ、いやそれ以上の重いものをかけて走ります。

 「信じる」というのは、死んでもいいという覚悟の下「自分」を投げ出すことではないでしょうか。そうしないと失うものがある。そうすることで生かされるもの、生き直せるものがあるから「自分」なんて小さいものは一旦捨てる。信じることは相手の性格や相互の努力、そして絆によって成り立つと思うかもしれませんが、僕は自分の決意にはじまり決意に終わると思っています。投げ出して受け止められなくても、自分でまた1から拾い直せると思う。一緒に拾ってくれる人もたくさんいる。「信じる」は、そういう自分が歩いてきた道や関わってくれた人たちを「信じる」ということかもしれません。僕は、守りたい固定的な「自分」というのをそもそも信じません。「自分」は、歩いてきた物語とそれに関わってくれる人たちのことであって、固定的な実体はない気がします。歩いてきた物語、関わってくれた人たち、そしてこれから関わってくれる人たち、それら全部信じないと「自分」が欠けて小さくなってしまう気がします。そんな「自分」は守らなくていい。信じなくていい。

 「信じる」というのは小さな「自分」を守らなくてもよくなれば、いつでもできてしまうようなことです。「信じる」ということは相手を知らなくてもできるんです。それは「相手」を信じていないからです。「相手」という固定的な観念です。いつでも世は変わり続けて、人も歩き続ける強さがあります。そういう大きなものに対する絶対的な信頼があるから、いつでも自分を投げ出せる。けど怖いものは怖いし、疑いもあります。信じがたい人格障害のある方もいますしね。でも人間皆まともじゃない部分ってあるでしょう。そこを認めて引き受けてないと、他人とは分かり合えないという前提にまず立てないし、そこに立脚すれば自分を投げ出して受け止められなくても起き上がれます。