Keishythm

人間らしくちゃんと生きたい何かの、足跡です。

もう一度ゼロから

5年ほど前、おばあちゃんが認知症になった。

これから話すのは、そこから私が人生を始めなおすきっかけについて。

1年で病気の進行は驚くほど進み、夏に服を何枚も重ね着したり、家中のものを片付け続けたり、家に帰れなくなったりするようになった。息子(私の父)のことを忘れ、おじいちゃんのことが少しだけわかるくらい。認知症は進行を抑えることはできでも、忘れたことやできなくなったことはもう戻らない。20歳の私は、正直、「これは生きているのだろうか」と思ってしまった。それどころか生きていても人に迷惑しかかけない。世話をしているおじいちゃんも疲労して弱ってしまった。小学校の先生で、いろんな人をきっと教え導いてきた聡明で柔和な人が、こんな終わり方でいいのだろうか、神様がいたらなんて非情だろうと思った。「人が生きる意味はなんだろう」と、それを考えなくてよい日々は、闇を知らずにただ生きているだけのような気がして恐ろしくなった。同じころ、部活で特に気にかけ何度も練習に付き合った後輩の訃報を聞いた。いよいよもうわからなくなった。何もない、生きる意味なんか。明日がある保証もない。「未来」がない、「過去」もすぎた。「今」もつかめない。どこに生きればいいのか、わからない。

そんな動揺を隠しながらごまかしていたある日、父がおじいちゃんと母とでおばあちゃんのいる施設に行くから「お前も来るか?」と聞いてきた。正直、会いに行くことはこわかった。おばあちゃんは、私が恐れていた空虚そのものだったから。けれどここで向き合わなきゃいつまでも進めない。そう思い、ついていくことにした。父と母に守られながら、おどおどと。ちゃんと勉強をして大学に入り、1人暮らしを始め、親から精神的に独立したと思っていた私は、まだ全然子供だった。死や空虚の前では、何も知らない小さな子供だった。

施設に入って、すっかり細く小さくなったおばあちゃんに、無理に笑顔を作った。けれどおばあちゃんは私を見て怖がった。体ばっかり大きくなってしまったのだ。心は孫のままなのに。もうおばあちゃんにとって私は体の大きな他人だった。

施設の方が家族5人だけの部屋を用意してくれて、おばあちゃんを囲うようにして座った。おじいちゃんは車いすに座るおばあちゃんの手を握りながら話しかける。でもなかなか反応がない。父と私はなかなか言葉が出ない。こういう時、男はなんて不器用だろう。唯一母だけが気丈に話をふり続けた。母はなんて偉大なんだと思った。だんだんとおばあちゃんも安心してきたのか「ああ、そうかそうか、そうだったかもしれないねえ」と答えにはならないが反応するようになった。しかし話は続かず私は、やっぱりもうおばあちゃんは帰ってこない、もういないんだと思いかけたその時、

おばあちゃんの目に、光がもどった。口を開いて、遠くを見て、明らかになにか思い出して話そうとしている。緊張が走る。その瞬間の4人は呼吸もせずに同じ気持ちで言葉を待っていたと思う。それは4人がずっとずっと待っていたことだから。

しかし、言葉は出てこなかった。やっぱり、だめだった。

でも悲しくなかった。そこに、おばあちゃんがいた。緊張がほどけ、不思議な空気に包まれる。

 「(ああ、いま、おばあちゃんそこにいたねえ…!)」

無言でも皆が何を思っているか分かる。おじいちゃんがおばあちゃんを握る手に力が入った。おばあちゃんが遠くを見つめる目に涙が浮かんだ。2人の歩いてきた道、歩いてきた若い2人の姿がはっきり見えた気がした。

 

この一瞬のことは思い出すたびに涙が出る。この一瞬の出来事は、それまでのどの時間より濃密な時間で、私はその場にいられたこと、その時間を構成するひとりだったことを、この上なく幸せに思う。奇跡としかいいようのない、永遠のような一瞬に、遭遇してしまった。わたしは「生きるということ」をからだで知ってしまった。生と死のはざま、ゼロともいうべきところから、何かが立ち上がる瞬間を見た。人がいるということ、生があるということ。目に光がさして、いのちがほとばしるということ。線香花火のような、その短いできごとは、生という事象そのものとしか言えないし、その熱に当てられて、自分の腹の底に知らずして持っていた生命の熱を感じることができた。確かにいま生きていると感じることができた。生きるってこういうことなんだと思った。

 後輩のこととか、3.11のこととかあったから。なければこんなことにならなかった。たぶん悲しみを重ね、やりきれない何かが充満したときに、あるいはゼロまで空っぽになったときに、それは啓示みたいにあらわれるのだと思う。知ってしまえば、奇跡はどこにでもある、見つけられるということがわかる。

振り返ればこうして、「生」を受けてから20年、おばあちゃんとおじいちゃんに、ふたたび「生」をいただくような形で、目を覚ますことができた。なんという不思議な巡りあわせだろう。「生」とはなにか、はっきりは言えないけれど、「死」がこわくなくなった。人生に意味を探すこともなくなった。

ただ私は、悲しみを歌おうと思った。出会いを喜んで。

人を信じようと思った。都合の悪いことを語って。

それで、人生も信じようと思った。ありったけの感謝を込めて。