Keishythm

人間らしくちゃんと生きたい何かの、足跡です。

Ces't la vie

青年海外協力隊の訓練を終えてきました。

 

  今回の訓練、共同生活で印象に残ったのは「話し合い」が足りなかったということでした。時間とか回数もそうだけど質的に。それは隊員のせいではなくて、ほとんど自分のせいなんだけど、話し合い方がまず上手くないのとその場づくりが上手くない。相手を知らないとやっぱりどこから話したらいいか分からないし、どこまで話していいかも分からない。その場やその人にとっての自分の立ち位置やこれからの身の振り方を考慮して、今自分が言うべきかどうかも考えなくちゃいけない。もっと自信をもって?と言う人がいそうだけだけど、それだけじゃない。

  話し合いのゴールを、何かの解決や何が正しいかというラインに持っていきすぎるが故に自分の局所的な視点で物を言いすぎたり、それを一意見として以上に受け取る人や何も言えなくなってしまう方々が多いように私には見えました。そして結局はそれぞれの価値観だねって終わるのでした。「多様性」というもっともらしい言葉を使いながら、他人の他人らしさを積極的に受け入れようとする「多様性」ではなく、問題が起きないようにする消極的な「多様性」になっていたと感じました。「多様性」は、それぞれの個性の特殊性を認めながらも、それが表れる前の出発点や岐路はどこなのかということを確認することをゆるやかに目指すための合言葉ではないでしょうか。多様性と言うのはもっともっと大大大前提で、そこを今更強調して「分かり合えないね残念」というのはあまりにも相対的に人を判断しすぎていて浅はかだと思う。

 

  私が尊敬したり、信頼したりするのは正しいことを言ったり大人びたことを言う人ではありません。その人の「その人らしさ」が見えて、それを自分の中で許し受け入れることを「尊敬」と呼び尊敬しようと思うし、私の私らしさをまず受け入れてくれることを「信頼」と感じ信頼します。それができるのが「対話」で、そのゴールはいつも「相互了解」なんです。お互いが腹のなかに持っているものを「了解」しあい、「判断」を待つ。判断したり評価してしまうとどうしてもそこで止まってしまうから誤解が生じる。了解といっても、人の話を聞けば何かしらの影響は受けるし、時間が経って落ち着いたり、統合の道が見えることもある。他人と完全に分かり合えることなんてないのだから、常にさらなる対話を待つような動的なものの見方で話し合う力や時間がもっとあったらよかった。どうして意見の違いが表れるか、どんな情報の差、世界の見え方に違いがあるか、それを感じ取って互いに「確認」する時間と言葉が決定的に足りなかった。。。確かに判断を待っていられない場合や決断をしなくてはならない立場の人もいます。今の北朝鮮とのことのように。でも恐怖や怒りでそのタイミングを間違えてはいけない。もう待つところまで待ってだめなら、もう駄目なんだ。相手を殺そうが自分が殺されようが同じことで、負けなんだ。そこまで行ってしまったらもう負けなんだ。だからそこまで行く前にどれだけ話し合って多くの意見を聞き、「それは違う」ではなく「どこがどう違う」のかを確認し、同じ出発点であることを分かちあうことが大事なんだ。

  分かってるふりをして、大人のフリをして、何もしない評論家たちはツイッターだけでなく至る所で蔓延している。安全な場所もっともらしいことを言えるのは余裕があるからで、本当に差し迫った状況の中で適切な決断を試みるのがいかに大変か、訓練内容のひとつである貿易ゲームという資源の奪い合いゲームで、最貧国の大統領になって感じました。北朝鮮だって本当にばかげていると思っていたけれど、もしあのゲームのようにその場にいて何もできず何も信じられず、世界を壊す力と決定権があったなら、私もそれを武器にしたと思う。

  本当は多様性と普遍性の間の緊張のなかに、すべての人がいつでもどこでも立っている。どんなに近いと思う人も決定的に根本的に他人で、そこから目を背けずに生きていけば、そりゃあいろいろ辛いしカルチャーショックだらけなはずだと思う。

  訓練中本音で話すことができた数少ない人のひとり、「ces't la vie(それが人生)」が口癖の語学の先生は、英語を学ぶつもりだった私に、英語を通して、物事を透かし見る力や様々な立場からの視点を、クラスメイトと真剣に話し合う場を設けることで教えてくれました。そして議論が詰まると「ces't la vie」と一旦区切ってくれるのでした。同じ日本人でさえ、世界の平和を願う人間同士でさえ、意見の違いがはっきりしている。その緊張感のなかで話し続ける強さとともに、世知辛さや自らの小ささを許し受け入れるためいきのような言葉が必要で、それが「ces't la vie」だと思う。

  先生はこのボトムラインをわきまえているから、割り切って多くの意見が出るようにファシリテートできる。なんの解決にもなっていなくても、白黒付いていなくても、私はクラスメイトの価値観の違いを知るための話し合いができたことそれ自体がすごく有意義で、彼らを信頼し尊敬でき、自分の居場所がそこにできた。世の中にはそもそもその「それが人生さ」と言いたくなるような事実を分かっていない、見ようとしない緊張感のない人が多いのかもしれない。それはそれで幸せなのかもしれないけどいつまでも続きはしない。わたしはそれよりも愛のある言葉とともに、力強く緊張の中を生き抜きたい。